ものぐさ旅日記

ふらーっと出かけて いろいろ書きます 

光と影25


西山松之助氏の著書『くるわ』から転載


氏が過去帳を分析して得られた結果


6冊の過去帳に遊女2156人 その子供2113人 計 4269人が記録されている


子供の数の多さに驚くが


江戸の市井でも水子、乳幼児死亡は多かっただろう


吉原に特異的に多いとは思うが


数字だけを見て判断はできない






一番右の列が浄閑寺に埋葬された吉原遊女とその子供の年平均の数


一番下の行が125年間の年平均の数



5冊目の安政元年以降は 遊女+子供の年平均は100人台になる


浄閑寺が一手に引き受けるようになったのだろうか?


週に2体くらい搬入された勘定になる



吉原遊女の数は時期により異なるが


2000人台から多くて4000人


概ね3000人くらいで推移したと仮定すると



これはもうちょっとアレな想像だけど


計3000人規模の女子大とその附属高校に当てはめると


とんでもない事だ 毎週毎週・・・


書いてみて おっさん他に考えることがないんかいと 


自分に突っ込みたい

光と影24


吉原の遊女が葬られたのは今戸の正憶院、


土手の道哲と称された西方寺とこの浄閑寺


前2者は移転し浄閑寺は同じ場所にある



投げ込み寺の名は安政江戸地震前からあり


吉原から早桶が出るとこの三寺に運ばれ


あらかじめ掘られた穴に投げ込むように


葬られ埋められた様を以てそう呼ばれた



浄閑寺には1743年より現在に続く過去帳があり


最初の6冊分が江戸から明治にあたり


吉原遊女と深川、麻布の岡場所の売女達について記載されている



それらについては古本の『くるわ』に詳しい


これもamazonで買った


著者は当時東京教育大学助教授だった歴史学者の西山松之助氏





この本からの転載



浄閑寺過去帳








戒名の下に俗名や町名、妓楼の主人の名が記載され


それらから遊女のものと判別される


約一割の一般人が含まれている


左右に童女、童子の記載がある


右の童女の戒名には泡の字が入っており


左の童子の但し書きには水子?の文字があり


いずれも水子なのだろう



安政江戸地震の犠牲者については別冊があり


名前が判明した391名について記されている


その多くは吉原遊女である



光と影23


前回の吉原遊女の一生で


なんと言ってもバッドエンドの一番は年季中の病死で


先の永井義男氏の著書によると



出養生(吉原を出て寮に入り治療に専念する)ができる遊女は


稼ぎの良い限られた花魁のみであった


しかしそれとて費用は本人持ちであった



盛りを過ぎた者、稼ぎの悪い遊女は行灯部屋などに押しやられ


投薬等もなく病勢のなすがまま


いよいよとなれば出身が近郷であれば親を呼び寄せ


勿体付けて 年季はチャラにしてやるので看取ってやんなせえと


引き取らせた  


妓楼内で死人が出ることは困るので厄介払いの様であった



縁者が遠方であれば伝えようもなく


亡くなれば菰(こも)に巻き浄閑寺へということになる




古句より



早桶や 禿ひとりが みおくりて



早桶は死人が出てから組み立てる急こしらえの座棺


禿はかむろ 遊郭が引き取った幼女 遊女の予備軍


亡くなった遊女によくなついていたのだろう


禿が一人見送る旅立ちであった