光と影26
西山松之助氏の著書『くるわ』から転載
初期の過去帳にはわずか(64人)ではあるけど死亡時の年齢が記されている
ヒストグラムにしてみた
39歳40歳のところは現役遊女なのか
遣手婆のようなOGなのかはわからない
吉原遊女は20歳までが多かったと言われるものの
吉原の年齢別人口がわからないので
厳密にその年齢での死亡数の多寡を論じることはできないけど
3000人の若い集団なら当時としてもこの分布は異常事態だったのだろう
正確に抽出された訳でもないけど
どのような年齢のご遺体が担ぎ込まれてきたか見当がつく
また年季についてもよく反映されてるように思える
10代半ばでデビューし年季の最大が27歳で
借金によってはさらに働かざるを得ない状況だったのだろう
前回の過去帳の分析の表で信女と童子+童女の数が同等程度であった
忘れてはいけないのはトータルと同じような数(約60)のピークが
0歳にあると言うことだろう
全く避妊のない性交なのだから当たり前の様に妊娠したのだろう
中絶はもちろん嬰児殺も想像に難くない
『吉原入門』には中条流の堕胎医について記載があった
方法は解らないけど重篤な感染の原因になっただろうし
無茶な分娩誘発もあっただろう
産科婦人科の救急疾患には厳しい痛みを伴うものが多いと思う
亡くなった遊女達が苦しみ抜いた挙句と思うと辛い
玄白先生は1000人診れば7,800は梅毒と記した
シーボルトもこの国の梅毒の蔓延ぶりを書き残している
おそらくは遊女のほぼ全員が梅毒を始め性病の罹患状態だったと思われる
梅毒なら年季明け前くらいから身体症状や精神神経症状が出だしただろう
明治期の過去帳には病名も記されることがあり
詳細な検討はされてないが
結核、脳膜炎の記載があるとのことだった
新吉原総霊塔の台座には
『生まれては苦界、死しては浄閑寺』の古川柳が記してある
苦界について思いを馳せながら手を合わせた
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