ものぐさ旅日記

ふらーっと出かけて いろいろ書きます 

光と影28

お蕎麦屋さんの長壽庵さんを出て


日光街道を北へ


商店街のジョイフル三ノ輪の入り口







ここもゆっくり見たい  後回し



さらに北へ


あれ あれ ない あるはずのものが


あった うなぎの丸善さん


きれいなお店になってる





前回 訪れたときは 究極のオープンキッチンだった







街頭で鰻を焼くもんだから


大規模飯テロで


道行く人がみんな


パブロフのワンコみたいになってた

光と影27


浄閑寺を出て


再び日光街道を歩く


常磐線のガードをくぐると


懐かしい感じのビルが目に入る





実は昭和の駅ビル


都電荒川線の前身 旧王子電気軌道の本社ビル


旧三ノ輪王電ビルディングで1927年竣工とのこと


階段を上がれば梅沢写真会館 写の字が落ちてる



ビルの一階がトンネルになってる


これはワクワク






左右には渋い食堂や飲み屋さんがある







お話を伺いながら一杯やりたいねえ



その先には 終着駅






都電荒川線 三ノ輪橋駅






チンチン電車に出会える街







ここはゆっくり見たいのでトンネルまで引き返して




入り口の長壽庵さんでそばを食う


あ 確かさっき食べたよね肉なんばん 


   わしゃ食っとらん









ああ 美味い



安い





腹も膨らんだのでもう少し歩こう




いつものルートマップ




光と影26



西山松之助氏の著書『くるわ』から転載



初期の過去帳にはわずか(64人)ではあるけど死亡時の年齢が記されている





ヒストグラムにしてみた





39歳40歳のところは現役遊女なのか


遣手婆のようなOGなのかはわからない


吉原遊女は20歳までが多かったと言われるものの


吉原の年齢別人口がわからないので


厳密にその年齢での死亡数の多寡を論じることはできないけど


3000人の若い集団なら当時としてもこの分布は異常事態だったのだろう




正確に抽出された訳でもないけど


どのような年齢のご遺体が担ぎ込まれてきたか見当がつく


また年季についてもよく反映されてるように思える


10代半ばでデビューし年季の最大が27歳で


借金によってはさらに働かざるを得ない状況だったのだろう




前回の過去帳の分析の表で信女と童子+童女の数が同等程度であった


忘れてはいけないのはトータルと同じような数(約60)のピークが


0歳にあると言うことだろう


全く避妊のない性交なのだから当たり前の様に妊娠したのだろう


中絶はもちろん嬰児殺も想像に難くない




『吉原入門』には中条流の堕胎医について記載があった


方法は解らないけど重篤な感染の原因になっただろうし


無茶な分娩誘発もあっただろう




産科婦人科の救急疾患には厳しい痛みを伴うものが多いと思う


亡くなった遊女達が苦しみ抜いた挙句と思うと辛い




玄白先生は1000人診れば7,800は梅毒と記した


シーボルトもこの国の梅毒の蔓延ぶりを書き残している


おそらくは遊女のほぼ全員が梅毒を始め性病の罹患状態だったと思われる


梅毒なら年季明け前くらいから身体症状や精神神経症状が出だしただろう


明治期の過去帳には病名も記されることがあり


詳細な検討はされてないが


結核、脳膜炎の記載があるとのことだった



新吉原総霊塔の台座には


『生まれては苦界、死しては浄閑寺』の古川柳が記してある


苦界について思いを馳せながら手を合わせた